祈りの回廊

特別講話

「南朝の歴史を伝える古刹」 如意輪寺
住職/加島公信

―後醍醐天皇の勅願寺(ちょくがんじ)ということですが、お寺の歴史について教えてください
―後醍醐天皇の勅願寺(ちょくがんじ)ということですが、お寺の歴史について教えてください
加島住職
 当寺は南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺となりましたが、もともとは平安時代、真言密教の修験者である日蔵道賢上人(にちぞうどうけんしょうにん)により創建された寺です。日蔵上人は醍醐天皇が深く帰依(きえ)された方で、後醍醐天皇は醍醐天皇を大変尊敬しておられたということですから、当寺を勅願寺とされたのもその影響でしょう。
 後醍醐天皇はご存知の通り、京都奪還を望みながら果たせず、ついにこの吉野で崩御(ほうぎょ)されますが、その御陵は当寺の本堂背後にございます塔尾陵(とうのおのみささぎ)です。天皇は「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山の苔に埋(う)ずむるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まんと思ふ」と綸言(りんげん)されたとのことで、通常御陵は南向きに造営されますが、後醍醐天皇陵だけは例外的に北を向いており、「北面の御陵」として知られています。また当寺には、後醍醐天皇の念持仏と伝わる金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)像(重文)や南朝方の武将・楠正行(くすのきまさつら)が鏃(やじり)で辞世を刻んだ「楠正行公辞世之扉(くすのきまさつらこうじせいのとびら)」などの寺宝も伝わっております。
 南北朝合一(ごういつ)後は一時無住となりますが、江戸時代に浄土宗の文誉鉄牛(ぶんよてつぎゅう)上人により再興され、現在に至っています。
―再興には、楠木正成の子孫が関係しているとのことですが
―再興には、楠木正成の子孫が関係しているとのことですが
加島住職
 
江戸時代に当寺を再興した鉄牛上人は、四国を治めた戦国大名・長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)の六男・文親(ふみちか)で、母親は楠木氏の末裔と伝えられています。大坂の陣では元親の跡を継いだ盛親(もりちか)とともに豊臣方に味方し、盛親は敗戦後打ち首となりますが、文親は吉野に逃げ延びて当寺を再興したということです。鉄牛上人はその後、吉野町山口に西蓮寺というお寺を創建しておりますが、そこは楠正行を慕った弁内侍(べんのないし)が尼僧となり、正行の菩提を弔った所で、やはり楠木氏ゆかりの場所です。
 とはいえ、室町・江戸時代は北朝方が正当とされた時代。再興後は、御陵を守りながら細々と念仏弘通(ねんぶつぐずう)に務めてまいりました。ところが幕末になり南朝正当論が発令されると、討幕を目指す志士たちが当寺に祈願に来るようになりました。これは南朝に忠義を尽くした楠木氏にあやかるということもあるでしょうが、それ以上に、江戸幕府と戦った長曾我部氏ゆかりの寺としての意味合いが強かったのかも知れません。よく明治維新を推進した藩を「薩長土肥」と言いますが、薩摩長州はもちろん、土佐藩も討幕に走った下級武士たちは長曾我部の残党。こう考えますと、歴史の因果を感じずにはおられません。
―南朝の評価も時代によって変わっているのですね
―南朝の評価も時代によって変わっているのですね
加島住職
 本当にそうだと思います。明治時代になり南朝正当論が主流になると、今度は、足利尊氏(あしかがたかうじ)が逆賊、楠木一族ら南朝方の武将が忠臣とされるようになりました。それが行きすぎて、戦前は当寺が、戦意鼓舞の象徴のようになった面もございます。戦争が終わり、ようやく歴史を偏りなく見ることができる時代となりました。そんな今だからこそ、皆さまに改めて南朝の歴史を知っていただくことは大変意味があると思います。
 当寺には、正行の遺髪を納めた髻塚(もとどりづか)があり、その死を知った弁内侍が剃髪し髪を埋めた至情塚(しじょうづか)がございます。楠正行公辞世之扉や後醍醐天皇念持仏の金剛蔵王権現像を拝観していただくこともできます。当寺を訪れることが南朝の方々の思いを感じていただくことにつながり、歴史に興味を持っていただくきっかけなればと思います。


※楠木氏の表記は「楠木」「楠」があり、本誌では如意輪寺の表記に従い、正行を楠、正行以外を楠木と記載しています
プロフィール

プロフィール

如意輪寺/住職 加島 公信(かしまこうしん)

1956 年、如意輪寺に生まれる。東京都増上寺で修行後
1979 年より如意輪寺副住職。
1990 年より如意輪寺住職を務める

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