祈りの回廊

特別講話

「各時代の善知識(ぜんちしき)によって守られた古刹」 法輪寺
住職/井ノ上 妙康

―聖徳太子ゆかりのお寺とのことですが、まずは歴史について教えてください
―聖徳太子ゆかりのお寺とのことですが、まずは歴史について教えてください
井ノ上住職
 当寺の創建には2つの説がございます。ひとつは推古天皇30年(622)に聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、太子の病気平癒を願って創建されたという説。もうひとつは、天智天皇9年(670)以後に百済の法師らによって建立されたとする説です。三重塔は山背大兄王ら上宮王(じょうぐうおう)家が滅んだ後の完成ということですので、当初山背大兄王が創建され、その後上宮王家の滅亡で停滞するものの、百済の法師ら聖徳太子を慕う人々によって完成されたと考えるのが自然かと思います。現在講堂(収蔵庫)に安置しております本尊薬師如来坐像(重文)、伝虚空蔵菩薩立像(重文)は、創建当初からの飛鳥様式の仏様です。
 その後の当寺の資料は乏しいのですが、講堂本尊の十一面観音立像(重文)や弥勒菩薩立像(重文)などの平安仏が多く伝わっていることから、都が京に遷ってからも寺勢はなお盛んだったようです。南北朝時代に火災に遭ったとの記録もありますが、どれほどの被害があったのかははっきりしません。
―はっきりと歴史が分かっているのはいつごろからなのでしょうか
―はっきりと歴史が分かっているのはいつごろからなのでしょうか
井ノ上住職
 文書として残っているのは、江戸時代に入ってからです。当寺中興の寳祐(ほうゆう)上人が記した『仏舎利縁起』によると、正保2年(1645)、大風によって当寺の伽藍は倒壊し、しばらくは三層目を吹き飛ばされた三重塔が残るばかりだったようです。その後享保年間(1716〜1736)に上人が伽藍復興を発願され、勧進のために、聖徳太子感得と伝える妙見菩薩の信仰を大坂の商人らに広められました。その甲斐あって復興は進み、宝暦10年(1760)には三重塔修復も成りました。その際、塔心礎より、創建時の仏舎利も見つかっています。
 三重塔はその後も法隆寺、法起寺の塔と共に「斑鳩三塔」と称され大切にされてきましたが、昭和19年(1944)7月、落雷により焼失してしまいます。私の祖父・井ノ上慶覚(けいがく)の時代のことです。ただ、幸いにも仏舎利が境内で見つかり、祖父はただちに再建を発願しました。
 国宝指定も解除され、国の援助の無い中での再建は困難を極めたと聞いていますが、祖父と父・康生(こうせい)の勧進行脚(かんじんあんぎゃ)に対して、地元の方々や、作家の幸田文(こうだあや)先生はじめ、全国のみなさまからたくさんのご支援を頂戴し、宮大工の西岡常一(にしおかつねかず)棟梁の下、昭和50年(1975)に、焼失前と同じ姿で再建することができました。
―各時代の庶民の信仰によって支えられてきたお寺なのですね
―各時代の庶民の信仰によって支えられてきたお寺なのですね
井ノ上住職
 当寺は昔から檀家を持たず、また有力な権力者の庇護を受けた寺でもありませんので、常にみなさまに助けていただきながら法灯を守ってまいりました。仏教ではそのようなみなさまを、善知識とお呼びします。
 講堂には、本尊薬師如来様をはじめ、7体の仏像を安置しております。正面からだけでなく背後に回っていただくこともでき、特に十一面観音様は、光背の穴から、頭部後ろの暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)も見ていただくことができます。
 また当寺から東へ10分ほど歩くと法起寺があり、途中右手には、山背大兄王の御陵と伝承される岡の原(富郷(とみさと)陵墓参考地)が見えます。当寺をお参りの際は、ぜひ斑鳩の里も散策して、聖徳太子や山背大兄王に思いを巡らせていただければと思います。
プロフィール

プロフィール

法輪寺/住職 井ノ上 妙康(いのうえみょうこう)

1961年、法輪寺に長女として生まれる。
1996年より僧籍に入り、法輪寺副住職を経て、2011年より同寺住職


法輪寺(斑鳩町) 
〒636-0101 生駒郡斑鳩町三井1570
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